心震える熱狂のスーパーゴール。木村和司がFKで破ったタブー(動画あり)

心震える熱狂のスーパーゴール

木村和司の攻撃サッカー―「背番号10」のプレー

FKでの直接得点は当時、禁忌だった。

おそるべきことに、Jリーグが始まる前の日本サッカー界では、FKでの直接ゴール……正確に言えばFKでゴールに向かって蹴る事自体がタブー視されていた。わかりやすくいえば、卑怯、卑屈なプレー。今は消えた個人プレーという禍々しい言葉に入る範疇のプレーだった。

そもそも、個人プレーとは何か。独りよがりなプレーをいう訳だが、その言葉はいつしか独り歩きを始め、「パスをしないとチームプレーじゃない」、「ドリブルなんてもってのほか」という固定感念を生み、それは長い間日本サッカー界低迷の元凶にもなりえていた。なにしろ、スター選手は結局ドリブラー……少なくとも一対一が強い選手であることが前提条件である。なのに指導では個人技を禁止される。いい選手が育つはずもない。

そして直接FKは、その個人技……個人プレーと目されていた。自分の責任で蹴って外してしまえば、それは皆の助けを借りようとしないひとりよがりなプレー、というわけである。ゴールを外せば指導者からは叱責……罵倒され、仲間からは白い目で見られる。そんな空気を変えたのが木村和司のフリーキックだった。それは日本サッカー界の悪しき習慣を一掃したと言っていい一撃だった。

かつてない無敗の常勝チーム、’85日本代表。

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木村和司のその一撃は1985年10月26日、メキシコW杯の最終予選。韓国とのホームゲーム。いわゆる「伝説のフリーキック」というやつである。よくそれが韓国戦であったことが熱狂とつながると言われるが、そもそも当時の日本代表はそれまでのW杯予選であわせて3勝しかあげたことがなかった。1次予選すら突破していない。それがメキシコW杯予選ではあれよあれよというまに3勝1分け、9得点1失点で1次予選を突破。しかも香港との2次予選も快勝して突破したのである。しかも前年には韓日戦(韓国のホーム)で見事勝利。日本中が沸くのも当然だった。

しかし、試合で観客はその実力差に愕然とする。単純に、体格が違うのだ。あえて当時の世相を考えて例えるならば「大関と前頭が戦っている感じ」である。もっと簡単に言えば、大学生と中学生のそれに近い。肩を並べるだけで、ため息がもれた。試合は、都並の裏を狙うという韓国の周到な作戦もあり、スコアは0-2と絶望的な状況。そんな沈鬱な空気の中で木村和司の一撃は放たれた。

大男に囲まれる牛若丸。その一撃。

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サッカーファン、いや日本中の国民が震えた。寒空に消えかけたW杯への望みがつながった。そしてこの瞬間、日本中のサッカー選手にFKは直接狙ってもよいもの、と植え付けられた。なにしろ当時はサッカーを伝えるメディアがそもそもなかったから、唯一無二の映像なのである。なにしろキャプテン翼ですら、FKのゴールシーンはほとんど出てこない。これが原点であり、日本サッカーが変わった瞬間であった。

まさかりを振り上げる様なダイナミックなシュートモーションから、ゴールポストの内側へ木村和司はやってのけた。木村は「戸塚が転んだ瞬間に、お、もろたなという感じ」だったという。実は、前年で勝利した韓日戦の時も木村はFKでゴールを挙げており、そのことでキム・ジョンナム監督はゴール前でのファウルを厳禁としていたという。その思惑も、ひそやかに打ち破っていた。

日本人プロ第一号へ。そして伝説は語り継がれる。

結局、この試合を1-2で落した日本はアウェイでも0-1と落とし終戦する。しかし、当時プロ化して強化に成功した韓国(なにしろ当時32年ぶりのW杯出場)を目の当たりにしたことでプロ化への機運は高まり、木村和司は日本人プロ第一号に。そして当時強化部長だった川渕三郎をチェアマンとし、8年後、Jリーグが誕生することになる。そのゴールは、日本サッカー界のくさびとなり、今でも輝き続けている。

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