2001年、オランダの地に降り立った小野伸二は正真証明のスーパースターだった。それは、まさに熱烈な歓迎。中田英寿はパルマに巨額の違約金で移籍。
稲本は当時プレミアで無双していたアーセナルに加入し小野伸二はヘリコプターでオランダに舞い降りる……。
あまりにも華々しく続くニュースに、「もしかしたらヨーロッパで成功するのなんて簡単なんじゃ?」。そんな錯覚を覚えたファンもいただろう。
とにかく彼らは世界中で注目を集めていた。中田英寿が第一次海外成功日本人とするならば、小野や稲本は第二次だったかなと思う。
日本人がクライフの背番号を身に纏って。
とにかく、当時日本の若手がこんな風に世界へ羽ばたくとみな信じて疑わなかったけど、翻ると小野も稲本も日本サッカー史に残る逸材だった。
しかも背番号は14番。それはフェイエノールトを初優勝に導いた「フライング・ダッチマン」でありバルセロナの哲学の祖であるヨハン・クライフの背番号。
ちなみに同年入団したロビン・ファン・ペルシーは18歳のヤングボーイ。のちの彼は「オランダ代表にはオノよりうまい選手はいなかった」としている。
なにしろ当時のフェイエノールトは華々しい才能にあふれていた。エースのファン・ホーイ・ドンクは毎試合のようにフリーキックを決めるし(世界一のフリーキッカーと言ってもだれも驚かない!)、相方にはヨン・ダール・トマソンもいた。
トマソンは小野に衝撃を受け、「人生に対する考え方が変わった」と未来で語る。
相手はマイスターシャーレと得点王とモーツァルトと。
しかもいきなりのビッグタイトルである。決勝戦のボルシア・ドルトムントはブンデスリーガ優勝チーム。202cmのブンデスリーガ得点王のヤン・コラーや翌年のブンデスリーガ得点王のアモローゾ。20歳のロシツキーがタクトを振ってGKがイェンス・レーマン。
しかし試合はフェイエノールトの「デ・カイプ」。少なくとも地の利は圧倒的に上だった。
試合はファン・ホーイドンクの2得点で先行したフェイエノールトだが亜後半開始早々アモローゾにPKを決められ2-1に。しかし50分に小野がロブ・ボールのスルーパスを送ると後にトマソンの代名詞となる2列目からの飛び出しが決まって3-1。
コラーに1点を返されるが3-2でロッテルダムは歓喜に包まれる。華々しい前線が得点を量産するが、失点するときはあっという間。
街に笑顔をもたらしたベルベットパサー。
そんなフェイエノールトらしいと言えばらしい試合内容ではあった。ちなみに小野が試合後につけた「一番ハチマキ」はファンからもらったものだったとかなんとか。
この試合が今でもロッテルダムの記憶に残されているのは、どうやらその2日前に「政治的な暗殺」、という大スキャンダルがあったかららしい。
ベルベットパスを操るルーキーは、複雑な観客を笑顔にしてみせたわけだ。
その後小野はノックアウト方式で勝負が決まるしかも第2戦のPK戦のロッテルダムダービー(長…)でペナルティスポットまでリフティングしてみたり、「ギャラクティコ」レアル・マドリー相手に中盤でシャペウかましたりして正真正銘、フェイエノールトの伝説となった。
彼はデ・カイプで「歴代」ベストイレブンにも選出されている。
(新井一二三)
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